BellWoods' Blog
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amzlsh

2011年11月26日

【読後ノート】まじめの罠

勝間さんの「まじめの罠」読了。

本人はまじめにやったつもりなのに、それが悪い方向に行ってしまっていることは、本人にはなかなか気づきにくいことかなと思った。

そう陥らないために「”まじめの罠”から抜け出すための6つのソリューション」を提示されているが、常に自問自答を繰り返すのは、正直辛いかも・・・。

自分がいい!って考えるから実行するのであって、その踏ん切りも大切かと思う。

でも、取りかかる前によくよく考えることは良いことだと思う。「従来からこうしていたから」という理由で何も疑いなく行うことはやめたい。

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【読後ノート】明日のコミュニケーション

読んで、ソーシャルメディアとのつきあい方がわかった。

「ソーシャルメディアにおけるコミュニケーション視点でのキーワード」としてあげられていた
企業はオープンかつ透明であることを求められるようになっていく
という言葉が印象に残った。

できるようで、なかなかできない。だが、チャレンジしていかなくては。

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2011年11月20日

【読後ノート】プレイングマネジャーの教科書

コミュニケーション術的なことが中心のプレイングマネージャ論。

コミュニケーションは、人を動かして結果を出せる人間になるためのビジネススキル。
「コミュニケーションをとらないと」と考えると、何か取り組みにくいが、ビジネススキルやタスクと捉えて、日常業務に取り入れてしまえ、と考えると何となく楽になった。


著者の経験から、いろいろなケースに応じたコミュニケーションスキルが記載されていたが、イチから十まではできない。著者は女性であり、女性的な目線ややり方でのコミュニケーションもある。男性にとってはチョット・・・というものもあったので、自分自身で取り入れて自然にできるものは取り入れていきたいと思った。
posted by KazuS at 19:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読後ノート

2006年09月25日

わかったつもり 読解力がつかない本当の理由

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因
わかったつもり 読解力がつかない本当の理由(著:西林 克彦)」を読んだ。

本を読んだり、文章を読んだ後、人は「わからない」ということがない限り、「自分はわかった」と認識する。しかし、本当は「わかったつもり」になっているだけであって、「本質は理解できていない可能性もある」ということを本書は指摘している。

そして、その「わかったつもり」の状態は、一種の安定状態のため、それ以上の探究をしようとすることを妨げ、それ故に「わかったつもり」状態が維持されたままになる。

ちなみに、筆者が定義する「わかったつもり」の状態とは、「文章や文において、その部分間にある種の関連がついてわかった状態」。だから、全く理解できていないということではない。しかし、「部分が読めていない」ので、「間違った」または「不十分なわかったつもり」になっている可能性がある。

「よりよく読みたい」と思うなら、「わかったつもり」という状態の存在をはっきりと意識すること、そこからの脱出をいかに図るかをはっきりと認識しておかなければならないそうだ。

この本では、時々、大切なところで「まとめ」をしてくれ、最終章でも、それらの「まとめ」をさらに「まとめ」てくれているところに、筆者の心配りというか、わかったつもりにならないような工夫をしてくれていると感じた。また、読んだ文章について「まとめる」行為は、自分自身がどういう「わかったつもり」の状態になっているのかを見極められる方法でもあると奨めている。なので、その「まとめ」があることで、だいぶ理解を助けられた気がする。

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因
わかったつもり 読解力がつかない本当の原因西林 克彦

おすすめ平均
stars得るものがある
stars全く新しい観点の本
stars主張は論理的だが、実行は難しい。
stars「わかったつもり」の人こそ読んでほしい本
starsステレオタイプのスキーマ

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筆者が言われる通り、一読後「自分は今まさに『わかったつもり』になっている」と認識して、さらに2回読み直してみた。だが、理解ができているかどうかは不明。なので、自分にとって参考になったところを、本文のまとめとして以下のように記載しておく。

【文章がわかるということ】


 本を読んだり、文章を読むとき、私たちは無意識のうちに、その「文脈」から導かれる「スキーマ」を使って理解していく。「文脈」とは、「物事・情報などが埋め込まれている背景・状況」のことで、「何の話かわからない」というときの「何の話」にあたるもの。また、「スキーマ」とは、「あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとかたまりの知識」。

【わかったつもりからの脱出】


 「わかっている」けれど「大雑把」。これが通常の一読後の状態。この状態から抜け出すには、自分は「わかっている」と思っているけれど、「わかったつもり」の状態にあるのだ、と明確に認識しておくことが必要。よりよく読むためには、自分で作り上げた現在の「わかった」状態を、自分で壊さなければならない。敵は自分。 どのようにして、自分の「わかったつもり」に対応していくか?

 まずは「わかったつもり」の状態を見極めるために、読んだ文章について、意識的に自分なりの「まとめ」をしてみる。

 そのまとめが、あまりに簡単であった場合には、「ステレオタイプのスキーマによる魔物」か、「文章構成から誘われやすい魔物」による「わかったつもり」になっている。

 「まとめ」が自らの慣れ親しんでいる「ステレオタイプのスキーマ」と同一である場合は、それを当てはめているのではないかと、自らの「読み」を疑ってみる。この場合、慣れ親しんでいる「スキーマ」を意識しながら文章にあたり、それに反する部分を意識的に見つけることを試みてみることにより、「わかったつもり」を乗り越える手がかりができる。

 文章に沿って読んでいるつもりだが、「まとめ」があまりにも簡単な場合は、文章構成にミスリードされた各種の「魔物」に搦め取られていることを疑う。どこかで「読み飛ばし」が起こっている可能性があるので、どこからどういう変化をしたのだろうという文脈で、文章を見直す手だてが有効になる。

 文章の中に出てきた各種の事例やできごとが、個別の特徴を伴って思い出せないときは、「『いろいろ』というわかったつもり」になっている。事例に関しては、なぜそれが事例になるのかという文脈や、他の事例とどこが同じでどこが異なっているのかという文脈で、それぞれの部分を見直すことが大切。また、できごとに関しては、なぜそのできごとが、記述内のその部分におかれているのかを、前後を見渡して見直してみる。

 自分が「どうも通りのよい、当たり障りのない解釈・読みとり」をしているなと感じたら、文章に誘発された「ステレオタイプのスキーマ」の魔力に搦め取られている。文章を読んで概略や解釈を述べるときに、「当たり障りのないきれいごと」が出てきたら要注意。そのときは、その「当たり障りのないスキーマ」を意識しながら、それが本当に文章の当該部分に適用できるのかと疑い、記述にあたってみる。

 これら各種の「魔物」によって作られた「わかったつもり」は、大雑把な文脈を用いて文章の各部分から大雑把な意味を引き出して、全体として整合性がとれている状態。搦め取る魔力を持った大雑把な文脈を使っているがゆえに、部分が細かく読めていない状態に陥っている。

 「わかったつもり」の状態を乗り越えるためには、それぞれの「魔物」に対して有効な手だてを講じればよい。すなわち、「魔物」という大雑把な文脈にかえて、もっと「部分」に焦点が当たるような「新たな文脈」を大胆に導入するのである。「新たな文脈の導入」とは、「部分を読む文脈」を交換していくことだ。

 最初の「わかったつもり」を、文脈を交換しながらたんねんに読むことによって壊すと、通常、次には新たな「矛盾」や「無関連」による「わからない」状態が待っている。しかし、そのような「矛盾」や「無関連」が、次の「よりよくわかる」ための契機となる。

 しかし、これで読みが終わるわけではない。「よりよく読めた」という状態は、「以前よりはよく読めている」状態かもしれないが、その状態を乗り越えるための、もっとよい読みが存在するかもしれない。「読み」という探究の過程に、終わりはない。
posted by KazuS at 05:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読後ノート

2006年07月11日

人は見た目が9割−竹内一郎

人は見た目が9割 タイトルにひかれて購入。帯に、日本人のための「非言語コミュニケーション入門」と書かれていた。読んでみて、いろいろなノンバーバルなコミュニケーション、信号の発し方があるものだと、改めて思った。

 米心理学者アルバート・マレービアン博士によると、人とコミュニケーションをとる際、話す言葉の内容は7%にすぎず、残りの93%は言語以外の顔の表情や声の質・大きさ・テンポという部分、つまりノンバーバル・コミュニケーションによるものらしい。
 それ以外にも、話す人の着ている服の色とか、間の取り方によっても、話が伝わりやすかったりするし、その人がどういう人なのかも無意識のうちに理解していることがある。そういうことに気づかせてくれた本であった。

 冒頭だが、面白い一文があった。
 私たちは、子供の頃小学校の先生に「人を外見で判断してはいけない」と教えられた。それは「人は外見で判断するもの」だから、そういう教育が必要だったのだ。
 逆にいうなら、「人を外見で判断しても、基本的には問題ない。ごくまれに、例外があるのみである」といってもよい。

 確かに、子供のころ、学校の先生や親にそういう教育を受けた覚えがある。それに加えて、人はみな平等であるというようなことも、よく言われた記憶がある。でも、人はどうしても外見でその人がどういう人なのかを考えてしまう。「怪しい人には、ついて行ってはいけない」。それは「怪しい」ように見えるから。やっぱり外見なのだ。見た目が受け入れられない人とコミュニケーションをとることは、基本的に難しい。でも、それが当然なのだ。人は外見で判断しないと、時には危険を伴うこともあるのだから。

 さて、この本は「日本人のための」ということもあり、日本人のコミュニケーションの仕方についても紹介されていた。「日本人は無口なおしゃべり」なのだそうだ。ノンバーバル・コミュニケーションが、意外と得意な民族らしい。筆者は、日本人が弥生時代以来の農耕民族であるところと、「秘すれば花」(世阿弥)という文化が根付いているからだと指摘する。

 Aは本当のことを言葉では語らない。Bは「Aが伝えたいであろうことを察する」。その両者の気持ちが通じ合ったときに、「深く関われた」と満足する。


 日本人はそもそも多くを語らない民族であり、言葉で相手を理解しようとはしない。それ故に、言語意外のコミュニケーションの占める割合が大きくかつ重要なのだ。

 また、芳賀氏(「日本人の表現心理」)による日本人のコミュニケーション/思考の特徴も紹介されていた。
 ・「語らぬ」文化
 ・「わからせぬ」文化
 ・「いたわる」文化
 ・「ひかえる」文化
 ・「修める」文化
 ・「ささやかな」文化
 ・「流れる」文化
 ・「まかせる」文化

 このなかで、「ささやかな文化」というのは非常に当てはまるなぁと感じた。日本人は、ささやかなものを愛する民族であり、枯山水や盆栽といった小さな空間を宇宙に見立てることができる。また、小さな空間に宇宙を、ほんの一瞬の時間に永遠を感じとろうとする傾向が日本人にはある。

 こういうことが、日本人のコミュニケーションには前提として存在することを忘れてはならないだろう。だから、外国人から日本人は難しく映るのではないかと思う。

人は見た目が9割
人は見た目が9割
posted with amazlet on 06.07.11
竹内 一郎
新潮社 (2005/10)
おすすめ度の平均: 3.67
5 なるほど、その通り
3 タイトルで拍子抜け
3 タイトルはうまいけど

posted by KazuS at 05:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読後ノート

2006年06月18日

家族のゆくえ−吉本 隆明

家族のゆくえ「家族のゆくえ」という本について。いつだったか、読売新聞の書評で紹介されていて、即日購入。書評の内容は覚えていないが、気になったのですぐに購入した。

2回読み返した。最後に「対幻想論」が転載されてついていたのだが、それはとても難しく、久しぶりに学校時代の国語授業を思い出す感じだった。アンダーラインを引きながら、筆者の主張はどこにある?なんて考えながら書き出したりしないと、とても理解できるような内容ではなかった。それ以外の部分、
吉本隆明さんの家族論といえばよいのだろうか。でも、私の印象に残ったのは、子育てに関する持論だ。

子供を育てるとき、肝になる時期は、2箇所なのだそうだ。

1つは、胎内7〜8ヶ月あたりから満1歳半ぐらいまでの「乳児期」。

2つめは、「少年少女期」から「前思春期」にかけての時期。

ここで、母親なり母親代理が真剣に子供に向き合い育てることが大切だと説いていた。そうすれば、凶悪犯罪がうまれることはないと。

私も、子供にとって母親の存在は大きく、少なくとも義務教育卒業までは家で子供をかまってほしいと思っている。

結婚し子供が生まれても、仕事を続ける女性は多い。
それが悪いとは言えないし、仕事をしたくてしている女性だけではない。

でも、自分の子供を育てられるのは自分以外にいない、というくらいの気概をもって、母親には育てて欲しいと思う。

自分自身の幼い頃をふりかえっても、母親の存在は大きい。

母親に注意されたことは、自分の子育てのなかでも、よく思い出される。それを、自分の子供たちに押し付けてしまうのもよくないのかなぁ?と思ったりもするが、自分の受けた教育だから、仕方がない。

1つ、自分の母親が行ってきた教育に対して思うことがあるとすれば、もう少し誉めてほしかったなぁということ。これがあれば、自分の性格も変わった(引っ込み思案ではなくなった)のではないかと思う。だから、自分の子供たちには、少し「誉める」ことをしたいなぁと思う。

だから、母親なり父親が、自分たちの子供に対して真剣に向き合って育てることについては、激しく同意。

しかし、2つめの時期に、放って置く(自由にする)、教育しない、という
方針はどうかなぁと思った。

吉本さんは、性教育はともかく、物事の善悪についても自由にせよ、という
ことを言われていた。

私は、物事の善悪の判断については、小さい頃から教えておきたいと思う。

自分の教えた善悪判断で、自分の子供が犯罪者となったとしても、そのときは自分たちの責任。そういうような状況になっても、親だけは子供たちの味方であることも教えたい。決して見捨てられることはなのだと。

家族のゆくえ
家族のゆくえ
posted with amazlet on 06.06.18
吉本 隆明
光文社 (2006/02/23)

posted by KazuS at 08:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読後ノート
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